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【ワダサカ論】vol.29

Vol.29 ブランメル仙台

 

 

コロナ禍の影響で大幅にスケジュールが狂ったサッカー界ですが、様々なカテゴリーで終盤を迎えています。地域リーグではFC TIAMO枚方とFC刈谷がJFL昇格を決め、J1は川崎フロンターレが圧倒的な強さでリーグ最速優勝を成し遂げました。J3ではブラウブリッツ秋田が独走状態のまま優勝&J2昇格を決めました。

これまでいくつかのJリーグクラブで仕事をしてきましたが、勝ち続けるチームにはそれなりの理由が存在していると思います。

今回からは、私がJリーグクラブをいくつか渡り歩いて経験・体験したことから【上手くいくクラブ】と【上手くいかないクラブ】の違いに関して私の考えを述べていきたいと思います。

 

 

私が日本で初めて仕事をしたのは1997年、ブランメル仙台(現ベガルタ仙台)でした。今でこそベガルタ仙台はJ1ですが、当時はJFLに所属しており、Jリーグ参入を目指していました。

その頃はまだJ2、J3が無かったので、JFLが実質2部リーグという時代です(1999年よりJ2が発足。仙台はその年から現在の「ベガルタ仙台」に名前を変更し、J2に参加)。

当時のJFLには『Jリーグを目指すクラブチーム』と『企業チーム』が混在していました。

Honda以外にも現在の徳島ヴォルティスの前身である「大塚製薬」、大宮アルディージャの前身である「NTT関東」、FC東京の前身である「東京ガス」など実力のある企業チームがたくさんいました。

私が仙台に入団した1997年はリトバルスキー(元西ドイツ代表MF、後に横浜FCやシドニーFCで監督を務めた)、越後和男(元日本代表MF、現台湾女子サッカー代表監督)、阪倉裕二(元日本代表DF、現ヴィアティン三重ヘッドコーチ)といった代表経験のある選手、それ以外にも大倉智(元柏レイソル、現いわきFC社長)、水内猛(浦和レッズで活躍。現在はタレントとしても活躍中)など多くのJリーグ経験者が所属していました。このシーズンはさらに補強をして期待も高まっていました。その中には日本代表で長く活躍された松永成立さん(『ドーハの悲劇』時の正GK、現横浜F・マリノスGKコーチ)もいました。

 

ハード面では仙台スタジアム、クラブハウスが整備されました。現在でも評価の高い仙台スタジアムを1997年にJFLクラブが使用していたというのは凄いことだと思います。

メディアの関心も高く、新監督に就任した私の師でもあるエルスナー氏( 詳しくはこちら  )は多くのテレビカメラに迎えられました。

 

私はスロベニアで指導者の勉強中でしたが、エルスナー氏に通訳が必要という事で、急遽日本へ帰国することになり、指導者ライセンスを取得していたのでコーチ兼任で入団しました。

 

就任前にクラブ側からは非常に楽観的な話を聞いていたこともあり、シーズンが始まってから現実とのギャップに苦しみました。思うように勝ち点は増えず、次々に問題が起きました。シーズン中2度の監督交代、それに伴う混乱もあり、最終的には財政面でもクラブ存続の危機に陥りました。

まさに【上手くいかないクラブ】の状態だった訳です。

 

私自身の事で言えば、スロベニアに留学していたので、ほんの数年でしたが日本のサッカーを見ていなかった上に、JFLというリーグ、自クラブの所属選手について何も知らない状態でスタートしたため、現状が把握できていませんでした。

これは特に監督のエルスナー氏などスロベニア人スタッフにとっては大きなマイナスだったと思います。他の日本人スタッフもいましたが、普段行動を共にする時間が圧倒的に長い私が、選手のことやJFLのサッカーについて上手く情報収集をするべきでした。

 

 

このような形で幕が開けた仙台での1年でした。

次回は、【上手くいかないクラブ】になってしまった当時の問題点について私の考えを述べていきたいと思います。