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【ワダサカ論】vol.5

vol.5 ベルデニック氏とエルスナー氏

 

前回はユーゴスラビア、スロベニアでの指導者養成、育成システムに関して少し触れました。

育成の最終目的は『トップチームで活躍できる選手』を輩出するということは明らかです。そのために、トップである代表チームが明確なサッカースタイルを持つことが必要になります。そのサッカースタイルによって、各育成年代でどのような指導、育成をしていくべきかが明確になります。

 

ユーゴスラビア代表のサッカーは、技術の高さに定評があったことは前回述べました。スロベニアでは、より現代的なプレー(組織的でダイナミックなプレー)に焦点を当てた指導するプログラムへとシフトしていきました。

ユーゴスラビア時代の育成では「技術を伸ばすことに偏り過ぎた」という分析がされ、スロベニアではより実践的に、より効果的にプレーすることを念頭にした指導・育成の方向性を模索していました。

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その指導・育成プログラムを整備したのが、ベルデニック氏とその先生であるブランコ・エルスナー氏(故人)です。

ベルデニック氏はご存じの方も多いと思いますが、日本に『ゾーンプレス』を紹介した方です。市原・名古屋・仙台・大宮で監督を務められ、大宮時代の21試合連続無敗は今でもJリーグ最長記録です。

私は名古屋と仙台で一緒にベルデニック氏と仕事をして、多くのことを学ぶことができました。この話は今後書こうと思います。

 

スロベニア代表監督としては、ユーゴスラビアから独立した直後から4年間指揮を執り、ヨーロッパ選手権予選ではイタリアと引き分け、ウクライナに勝つなど、ヨーロッパにおけるスロベニアの存在を示し、代表チームとしてのプレースタイルを作りました。

 

エルスナー氏はオーストリアのクラブを率いてオーストリアリーグ優勝、ヨーロッパチャンピオンズカップ(当時はホーム&アウェーのカップ戦で文字通り各国リーグ戦の優勝チームしか参加できませんでした)準決勝進出などの実績を残し、その後オーストリア代表監督も務めた方です。JAPANサッカーカレッジの保護者世代でサッカー好きの方ならご存じかもしれませんが、ブランメル仙台(当時JFL、現在のベガルタ仙台)で監督をされたこともあります。

 

彼は大学の先生でありながら、ユーゴスラビアとオーストリアのクラブで監督として素晴らしい成績を残しました。その手腕を評価したFCバイエルン・ミュンヘンからオファーを受けたにも関わらず、「大学に戻る約束をしているから」という理由で断ったという逸話を持つ方です。その実績からUEFA(欧州サッカー連盟)にも影響力を持っていました。

 

余談ですが、彼の息子はプロサッカー選手になり、エルスナー氏が率いるチームに所属したことがありました。周りの人々やサポーターが息子を試合に出せと何回言ってもなかなか起用しなかったそうです。親子だからこそ、より厳しい見方をしていたそうです。息子は後にユーゴスラビア代表選手に選ばれ、1984年ロサンゼルスオリンピックで銅メダル獲得に貢献しました。

 

ベルデニック氏はエルスナー氏のもと大学で勉強し、後任として大学のサッカー部門責任者になったのです。この二人の存在が、総人口200万人の小国であるスロベニアをW杯、ヨーロッパ選手権出場という結果に導き、2000年代における躍進の基盤づくりに大きく貢献したと言えます。

2人とも指導者としての実績はもちろんですが、なんといっても人間的に素晴らしく、この2人のもとで勉強できたことは本当に幸運でした。

(続)